いつもコラム記事を読んでくださっているみなさま、こんにちは!エコスタッフ・ジャパン株式会社(ESJ)の石中です。
普段はこのコラムでは、主に「産業廃棄物に関する基礎知識」や「環境に関する時事ニュース」について取り上げて解説しております。
今回は当社の代表、田部和生にインタビューを行いまして、ESJのこれまでの成り立ち、設立後約20年の静脈業界の変化やESJの歩み、
また田部自身の経歴について深く掘り下げていきます。
第1弾は「ESJとの出会い」と題し、田部のバックグラウンドからESJとの出会い、設立時のエピソードをご紹介します。
質問)まずは、田部社長のご経歴を伺う前に、改めてESJについての会社紹介をお願いいたします。
田部)はい。簡単に言うと、廃棄物・リサイクルの業界をわかりやすく、教育研修でレベルアップし、全国標準で安心・安全にする、という仕事をしています。全国の優良な処理事業者のネットワークづくりと、教育研修の会社ですね。
成り立ちも大変珍しく、処理事業者10社が出資して設立されました。単独出資や他業界からの進出ではなく、ある意味「業界を代表して業界を変えたい」と出来た特殊な会社です(笑)。しかも業界の権威である細田衛士先生も設立当初から顧問でいらっしゃいます。なかなかこんな会社はないと思います。
質問)ESJは「環境」に関わる企業ですが、「環境」への興味はいつ頃から持たれたのでしょうか。
田部)環境に対しての漠然とした関心は高校時代からですね。社会科の授業で「環境問題」というものがあると聞き、「なんじゃそれは」と感じたことを覚えています。「自分の住む場所を汚したら、住めなくなるじゃないか」という純粋な違和感でした。ただ、高1の冬休みにアメリカへホームステイをしたことをきっかけに、将来は国際的なことに携わりたいと思うようになりました。私は高校までが広島、大学からが東京で30年以上経ちますが、この頃感じたことは今でも変わっていないように思います。
大学は国際関係の学部(青山学院大学 国際政治経済学部)に入学し、在学中はバックパッカーとして多くの国へ行くなどしました。就職活動は興味を持った「国際」と「環境」の両立を目指して、それらを切り口に臨みましたが、大失敗(笑)。環境という言葉はただの宣伝文句だと面接官に言われたことを今も覚えています。楽観的に「何とかなる」と思って臨みましたが、甘かった。全く何ともなりませんでした。結果、最初の就活は上手くいかず、大きな挫折を味わいつつ就職浪人となりました。その後、色々な人に助けて頂き、まず何としても仕事を見つける、という発想に変わりましたね。OB訪問も父親にも紹介してもらうなど、やれることを全てやろうと決めて再度就活に打ち込み、縁があって急成長中のIT企業へ入社することになりました。
質問)色々な選択を経て、社会人への道へと進まれたのですね。1社目となるIT企業(ソフトバンク)ではどんなご経験をされたのでしょうか。
田部)そうですね。まず、会社のカラーや業界も波に乗り始めていた時期で、自分も怖いもの知らずの所があって、その波長が合ったのかなという感覚があります。当時は普通に孫さんや北尾さん、宮内さんなどが箱崎の本社におられました。会社は流通事業がメインで同期も多くはそちらに配属となりましたが、私の配属先は「デジタルマーケティング部 新規事業開発室」という部署でした。よくわからないですよね?自分もそうでした。当時としては最先端で、まだ普及前だったオンラインによる音楽配信やソフトダウンロードなど、興味深い案件が多くありました。そんな中、4月に入社したばかりでしたが5月にはその部署自体が新会社になると聞き(オンセール(株)、1998年7月会社設立。現ガンホー・オンライン・エンターテイメント(株))、業界や会社のスピード感には驚かされました。シリコンバレーのUS本社へ出張した際などはモチベーションも最高潮(笑)。若手なのに転職エージェントから次々連絡があるなど、今振り返ってもITバブルの面はありましたね。
結局、ソフトバンクには出戻りをするなどして計5年ほどいたことになりますが、自由な分、責任も大きいと感じたものです。中でも営業力や数字の必達意識など基礎的なものが培われたという感覚はありますね。新規事業もいろんなカッコイイことを言ったり書いたりしても、結局ものをいうのは営業力です。仕事を頂けないと始まらないし、続きません。100人参加したら20人脱落するような外部の合宿型研修に参加したこともあります。駅前で喉が枯れるほど歌うなどで、研修後に家に電話すると「あんた誰?」と言われたのも懐かしい思い出ですね。
とにかく、このころは営業的な筋肉を鍛えたという実感と、ITの基礎が身に付いたこと、なにより多くの人に出会うことが出来たことが財産です。また、いくつかの新規事業・ベンチャーを経験したことで、今でも新規事業という言葉にはワクワクするのですが・・・、何より自らが打ち込める内容で、継続したいと思えるものなのか、がとても大事だと思うようになりました。
質問)中々ハードなご経験をされていたのですね…。さて、次にリサイクルベンチャーへの入社ということですが、出会ったきっかけは何だったのでしょうか。
田部)当時所属していた人材企業(イーキャリア(株)、現 SBヒューマンキャピタル(株))で営業先をリストアップしていた時に、リサイクルワン(現レノバ(株))という会社の記事を見つけました。同い年の28歳、同世代の人が環境分野でベンチャー企業を起こしている、ということに感銘を受けましたし、何より初年度から黒字を出していることに驚きました。自分が学生時代に漠然と感じていた「環境」という領域と、この分野で同い年が起業してチャレンジしている、という点がアンテナに掛かり、どのようにアプローチしようか考えました。すぐにでも訪問しようかと思いましたが、「これは単なる営業先ではない」とも感じ、しばらくの間大事に、そのままにしておくことにしました。
実はこの頃が自分としても人生の転機の時期で、「国際」や「環境」のキーワードを一歩でも具体的に進めないと、このまま時間が過ぎてしまう、と考えていた頃です。それから会社も実際に辞めて、遊学ならぬ海外への渡航計画を考えていました。1年くらいはいいかなと。最初にニュージーランドで英語を学ぶつもりでしたが、普通じゃ面白くないので2週間ずつ語学学校を変えて、北から南まで数か月で縦断し、そのままオーストラリアに行って中華系の方の家にホームステイし中国語も学ぶ。フロリダではテニスやゴルフと英語の両方を学ぶとか。その途中にスペインでも語学学校にも行ってみようかな、とかいろいろ具体的に考え、実際にワーホリビザや飛行機の手配までしていました。でも「リサイクルワン」の記事が気にかかり、ダメもとで社長さんに一度お会いしてみて、それから考えてもいいじゃないかと思い、ホームページから応募してみるとすぐにご連絡を頂き、実際にお会いできることになりました。お話しするとすぐに意気投合し、私も自分のやってきたIT分野の経験や営業経験も生かせるとも感じました。
ただ同時に、海外へ行かなくていいのか?という自分の声もあり、真剣に悩んでいました。そんな時、父親に相談したところ、『「海外」は逃げない、いつでも行ける。でも「会社」は出会い、縁があったなら大事にしろ』という言葉を貰い、確かにその通りだなと。この言葉には今でも感謝しています。そうして海外渡航をすべてキャンセルして、またベンチャーへ参画することになりました。分野はリサイクルなので新しいのですが、当時はITと環境を融合する、という会社ビジョンで自分にはまさにぴったりでした。そういえば、最初はわがままを言って入社を少しだけ遅らせて頂き、韓国に行ったことを覚えています。2泊3日(笑)。
質問)リサイクルベンチャーへの転職後、ESJとの出会いのきっかけが生まれたとのことでしたが、どのような経緯だったのでしょうか。
田部)はい。リサイクルワン時代は様々な案件に関わらせて頂きました。大阪や秋田での容器包装リサイクル工場立ち上げなど様々な分野の仕事がありましたが、驚いたのはベンチャーとはいえお客様や登場するプレーヤーが大手で、金額も大きいものがいくつもあったことです。この分野の重要性を認識するとともに、全くひるまずむしろ堂々と、確信をもってコンサルティングを行う社長や役員陣を本当にすごいと感じたものです。海外案件でタイに1か月ほど出張した際には、やりたかったことを実現できた喜びと同時に力不足を痛感しました。他にも金融機関や自治体など、これまで接点のなかった方々との出会いも多くありましたが、その一連の活動の中で、私が担当した顧客の一つが業界団体(当時の全国産業廃棄物連合会、現在の産業資源循環連合会。以下、全産連)への営業でした。
具体的には新規事業の提案や事業計画の策定支援などが営業テーマでしたが、全産連に飛び込みで電話をかけ、担当者を探っていくうちに全産連の中にある全国青年部という若手の方々の組織を対象としたほうが良いと知り、さらに深堀していく中で若手のキーマンとして具体的に名前が挙がったのが、浜田さん(現 (株)浜田 代表取締役)、松浦さん(現 (株)富山環境整備 代表取締役)です。当時お二人は専務か副社長だったと記憶しています。今ではお二人とも当社の役員ですので、大変なご縁を感じます。また、その流れで東京の産業廃棄物協会の方々ともお会いすることになり、当時あった六本木プリンスホテルのロビーで碩さん(前(株)東亜オイル興業所・[現(株)東亜シブル] 代表取締役、2018年に他界)、白井さん(前白井グループ(株) 代表取締役、2023年に他界)とお会いしたこともよく覚えています。私は一人で出向き、碩さん、白井さんのほか複数の方々にお話を聞いて頂きましたが、その独特の威圧感は今でも忘れません。お互いに「何者だこいつは」という訝しがる感じでしたが(笑)、こういう未知の出会いは、結構好きなほうです。今となってはこの時お会いした方々の出資で当社が設立されたわけで、運命的な出会いだったと言ってもいいかもしれません。
その後、リサイクルワンでは秋田に工場立ち上げで1年ほど常駐したのですが(現 秋田エコプラッシュ(株))、ゼロから工場が立ち上がる様子を見て、現場で事業を構築するやりがいを感じながらも、自分自身も経営自体にも携わりたいと思うようになっていました。同時にこの頃ESJという会社があると薄っすら聞くようになりました。その後リサイクルワンの同僚と名古屋で起業し、様々なチャレンジをしていた時、環境展にも仕事(案件)を探しにいきまして、そこでESJと巡り合いました。「ESJ」という看板でお1人でブースに立っておられたのが、当時の代表であった宗さん(現weee(株) 代表取締役)でした。この時に「あの浜田さんが仰っていた会社か」と合点がいきました。宗さんもなぜか少し私のことをご存じだったようで、話は自然と弾みました。そうしてESJの理念や構想をお聞きする中で、全国ネットワークを作る上で必要なのはまずは基準作りと、核となるマニュアルではないでしょうかと提言をさせて頂き、もし予算を頂ければご一緒に基準作りの仕事から引き受けますよと。思い返せば、これがESJとの最初の出会いになりますね。
質問)そのような経緯でESJと出会われたのですね。動き始めはどのようなことに取り組まれたのでしょうか。
田部)宗さんと出会ったのが2006年5月の環境展で、その年の9月から日本橋のシェアオフィスでESJの活動を始めました。それまでの新規事業の経験から、認定企業という仕組みや、NW構築におけるステップはイメージがありました。最初に基準作りから取り組んでいきましたが、「優良処理事業者の集まり」というからには、まずは最低でもISO14001 かエコアクション21(EA21)の取得を条件とすることや、国が定める「優良産廃処理業者認定制度」をESJネットワークの基準として考えていきましたね。マニュアル作りでは全国の処理事業者を訪問し、収集車両に乗せて頂くなど、実際に働いている方に対してインタビューや現場の写真撮影などを行っていきました。
これらの取材をもとにマニュアルを作ったのですが、この時ご協力いただいたのが宇都宮にある環境ワークス(株)の黒崎先生です。労働安全衛生の専門家でいらっしゃいますが、立上げ当初ドライバー検定の構想や骨格にも深くかかわって頂きました。また、処理事業者を訪問した際に感じたことですが、特に社長の方々には心に熱いものを持つ方が多く、事業への情熱や環境への貢献と併せて、地域密着、家族や社員第一の考えが共通していると感じました。出来たばかりの当社に、目の前のメリットが小さくとも「メリットは自分で見出すべきもの。それを共に創りあげましょう」と言って頂けるような社長も多く、この事業の可能性と共に言葉に代えがたい感動を覚えたものです。
こうして振り返ってみますと、多くの方々のご協力でここまで事業を続けることが出来ていると感じますし、本当に感謝しかありません。色んな方々の想いや夢を預かる会社として今、ESJという組織で代表をさせてもらっていることはとてもありがたい事だと感じています。
さて、今回の代表インタビューはここまでとなります!最後までご覧いただきありがとうございました。
今回は田部の経歴を中心とした内容をお送りしました。次回は、「静脈業界の変化」について、様々なトピックをぶつけていきます。
第2弾もお楽しみに! 当社を知って頂くきっかけとなりましたら幸いです。
次回の投稿も是非ご覧いただけますと嬉しいです!